すきとおったたべもの


実は先日仕事を辞めて、
お金がないからどこにもいけなくて
まいにちぼーっとしていました。
仕事は無事決まり、仕事が始まるまでの残り時間、
これからの日々をできるだけ落ち着いて過ごす為に、
すこしずつ部屋をせっせと片付けています。


自分の部屋は自分の大切なものをそのままをうつしたように
過去からの溜めてきたものが溢れています。
今回は、すこしだけ、過去の想い出のものとさよならをしました。


壊れてしまっているのに捨てられないものがたくさんありました。
自分で壊してしまったトイピアノとか、
履き崩してしまった初めて買った革靴とか。
地震のときに高いところから落ちて壊れたポータブルレコードとか。
灯りがつかなくなってしまった電灯とか。
まだまだ色々。
だけど思い切って捨てようと想いました。


さよなら、と挨拶をして、
昨日燃えないゴミに出したのだけど、
夜、布団の中、眠れなかった。
なんだか今頃道路の向こうで、ものが泣いてるように感じました。
今とりにいけば間に合う、
半分眠りの中でそんなことを考えてしまって。


だけど、朝まで布団から出なかった。
もう、ものたちは、ゴミとして持ち去られました。


とてもとても大切なものたちでした。
いままでほんとうにありがとう。


今日は片付いた部屋でゆっくり
『ひかるゆめ』を聴きました。
『ひかるゆめ』は多分4ヶ月に一度くらい、
ちゃんと聴かないといけない時がある。
自分の自己確認作業のようなものなんだろう。
おばあちゃんになっても私はきっと一生、
ときどきとりだしては聴き続けるんだろう。


この『ひかるゆめ』という「もの」
(ジャケットも歌詞カードも盤も中身も想い出も全部含めて・・)
のなかには、自分の部屋のように
自分の大切ななにかが詰まっている。
たまに聴くとそのことに気づく。
自分のうたや曲や演奏がいいか悪いかじゃなくて
きっとこれが私が好きで大切な世界なんだろうな。
大切なものや大切な言葉や大切な空気や大切な色や
大切な人や大切な夢や大切な気持ちや大切な想いでや・・・
わたしにとっての「すきとおったたべもの」でできたもの


「すきとおったたべもの」というのは
宮沢賢治さんの「注文の多い料理店」の序文にあることばで、
大好きで大好きでいつも心の中にある言葉です。
賢治さんの童話もきっと、
賢治さんの大切なものでつくられていたものだったのだな、と、
とてもわかるほんとうに美しい文章です。
長いけれど添付します。



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わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとほった風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、
いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石いりのきものに、
かはっているのをたびたび見ました。
わたくしは、さういうきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、
虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、
十一月の山の風の中に、ふるえながら立ったりしますと、
もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、
わたくしはそのとほり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、
ただそれっきりのところもあるでせうが、
わたくしには、そのみわけがよくつきません。
なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、
そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、
おしまひ、あなたのすきとほったほんたうのたべものになることを、
どんなにねがふかわかりません。


            大正十二年十二月二十日    宮沢賢治


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きっと、なっているとおもいます、賢治さん・・・。
とこれを読むたびにひとり想う。
「ほんたうの」。「すきとほったほんたうのたべもの」。
「ほんとうの」たべものになるかどうか、
それはわたしたちの感じる心しだいなのですね。


今はじぶんのすきとおったたべものを確認する時期。
これから、ずっと書けないでいた手紙を書きに
世界で一番美しい時間を過ごせる喫茶店
高円寺のR座読書館へ行こうとおもいます。
今読んでくださっている皆様の、すきとおったたべものはなんでしょうか。
いつか機会があったらおしえてください。

マイ神棚です。