木々

植物の色を感じることが
自分のバロメーターになってるなあと思う
樹々は風や光をほんとうに気持ちよさそうにかんじてる。
その気持ち良さをわたしも一緒にかんじるとき、
植物とすこしだけ近づけるような気がしているよ。


海のすぐ近くの山に囲まれた九州に住んでいた頃
子供のころはいつも感じなくたって田んぼの稲に囲まれて
春から夏は一面緑いろの世界、そして秋は金色、冬は一面寂しい枯草色、
友達の家からの帰り道、金色の稲に夕陽が光って
子ども心にあまりの美しさに道の真ん中でひとり立ち止まっていた
歩いて10分の海に行けばいつだって、
夕陽が沈むじかんは海と空の色が混ざって、
青、紫、桃色、橙の信じられないような虹色のグラデーション
その虹色がちゃぷちゃぷんと気持ちの良い音をたてて、
波と一緒にゆらゆらゆらゆら揺れている。夢のような風景。
一瞬一瞬色が変わって、真っ暗になるまで目を離せなかった。
元気がなければ海にいってひとりでじっと無言で海を見て過ごした。


そうそう家はお母さんが植物マニアで笑、
家中が植物で溢れかえっていた。
マンションなのにベランダがバラ園だったなあ。笑


いつもそういうのを当たり前に感じれたから
子どものころは自然に対してなんとも思わなかったし
むしろそういうのが老人くさく感じたものだけど
東京にでてきてなんだかすごくそういうことが貴重に思えてたまらないのです。


息をしにゆくように
定期的に公園に足を運ぶ
季節の移ろいをこの眼で見にゆく


ベートーベンは自然のなかを散歩しては曲をつくって、
「田園」という曲などは自然の中の音をそのまま譜面化しているだけなんだ、
というようなことを言っていたらしいけど(うろおぼえですが)
なんだかわかるようなきがする。
自分が「宇宙」とおもっているのはそういうことで、
そういう感覚は宇宙とつながってるとしかおもえない感覚だったりして、
すべての素晴らしいものはだれかがひとりでつくったものじゃなく
なにか大きいなにかから贈りこまれてきた贈り物のようなきがする


だから自分もできるだけそういうものとつながれる自分であるために
いつも木や花のように青い空や風や光に敏感でいたいなあと思います。


忙しい東京ではそんな小さなことが難しかったりするのだけど・・
その過程を少しでも簡単にするために今公園の隣に住んでいます笑


夕陽や朝陽は毎日あたりまえのようにあんな色を海にうつして
樹や花は光や風をいつもからだいっぱいに感じて枯れては芽吹き、
ただそれを何百年もくりかえしてきたんだろう
たぶん動物も自然にそれを守るようにできてる。
自然のことを愛したら、
お金儲けのための無理な営みはほとんどできなくなっちゃうはずなのに
なんで人間には自然と共存するという本能が植え付かなかったんだろうな
太古の人間はできていたのだろうにね


わたしもべつにエコな生活もしてないし、
その営みに乗っかって生きてるからなにも言えはしないのだけどさ・・・


日々、原発のことをかんがえたり、
それに関する人の言葉をみたりして、いろいろ感じています。
たぶん音楽で一番気持ちよくなったりするときと
自然の美しいものに囲まれているときって
おんなじところにさわっている気がします。


仙台の風景はどんなかな、
ゆっくり眺めてきます