『ひかるゆめ』コメントです。


穂高さんに初めて会った日のことをよく憶えている。
その日僕は穂高さんともう一人の女性によるいろりという名のバンドのライヴを目の前で観た。
確かライヴの最初に穂高さんが顔をうつむけきって長い黒髪を垂らしながら、ギターで、ゴッ...、ゴッ....、という不規則なノイズを出し、それに合わせてもう一人の女性が麻袋かなにかから緑色の林檎を一気にばーっと床に転がせることからそのライヴははじまったような気がする。
穂高さんが出していたゴッ、ゴッ、というノイズはおそらく緑の林檎が床に転がり散らばる様子を表現していたんだと思う。
今はおそらくそのころとではライヴに対する姿勢も違うんじゃないかと思うが 、そのとき穂高さんは客席に向かって自分の歌を聴いてくれる感謝でも、歌を聴いてほしいという願いでもなく、むしろ自分の歌を最後まで引き受けられる客などいるのかというように挑戦的な、まるで追いつめられた獣が祈りとも呪いともつかないまなざしで睨みつけるように、全身を震わせながら戦うように歌を歌い、ギターを弾いていたような気がする。
そのときの穂高さんの歌は素手で自分の胸の肉を抉りこみ、血の滴るまだ脈打つ心臓を掌でつかみ取り、それを眼前に突きつけるような歌だった。

『ひかるゆめ』を聴いて僕は、穂高さんと知り合わなければよかった、と一瞬だけ本気で思った。
だけどそれは穂高さんを 個人的に知っている者にとってはそこまで感動しえない歌だという話じゃまったくない。
そうじゃなくて歌がただの一曲の歌として、例えばどこか居心地の良い喫茶店やラジオから流れてきたものをまったくの他人として聴いたとしても、それだけそのままのかたちで本当に豊かですばらしいものだから、僕が穂高さんのことを知らなければより一層この歌が、出会ったことのない誰よりも大切な人からの手紙のように感じられただろうということだ。
それは穂高さんの歌がそれだけなんの前提も必要とせずに、聴く者の心を震わすものだということだろう。だからこれを読んでいる穂高さんの歌に感動した、穂高さんを個人的には知らないという人は穂高さんと個人的に知り合わない方が良いかもしれない。
歌うということは、心のすべてを見せることだ。
それは家族や友達や恋人はおろか歌っている本人にさえも分からないものさえも、どこにいる誰だか分からない、だけどどこかに確かにいる聴き手に向かって曝け出すということだ。
だから人と人との関わりにおいて歌を誰かにその相手に歌い、その歌を相手が受けとめるというそれ以上の関わりというものは本当は存在しないのだ。
最後に『ひかるゆめ』を聴いて、すこし驚いたことがひとつあるからそれを書いて終わりにしよう。
それは『緑』という曲が収録されていたことだ。
そのことのなにに驚いたかというと、僕は穂高さんのこの曲の存在をこうして『ひかるゆめ』で聴くまですっかり忘れていたのだけど、『ひかるゆめ』での『緑』を聴いたときに、穂高さんと出会ったばかりのころによくこの曲を穂高さんがライヴでノイズまみれのギターを掻きむしり、そのうしろにたどたどしくフリーキーなバンド演奏が続くなか、穂高さんがぶっきらぼうに、「血液は緑色」、と吐き棄てるように歌っていたことを瞬時に思い出し、そしてこの『ひかるゆめ』に収録された『緑』はあのころとは随分と変わったことに僕は驚いたのだ。
穂高さんが細長い指で胸の肉を抉り、僕の前に突き出した脈打つ血まみれの真っ赤な心臓は僕が知らないあいだに、あのときのライヴで穂高さんが転がる音を表現していた緑色の林檎に変わっていったのではないだろうか。
だけどあのころの祈りと呪いが交じった睨みつけるようなまなざしはきっと穂高さんの心の奥底では変わることなく、今でも続いているだろう。
何故なら歌が生まれるところは祈りと呪い以外のなにものでもないから。
だけど穂高さんの聴き手に向けたまなざしは今はもっと暖かなものになっていってるんじゃないだろうか。それは丸くなったとか、媚びるようになったとかいうようなそんなつまらないことじゃない。
きっとあのころよりも穂高さんのなかで自分が何故歌を歌うのかということや、自分が歌を歌うということそのものがもっとはっきりと確かなものになったということなんだろう。
だから、まなざしの真摯さはなにも変わっていない。
いや、もっと純度が高まっているんだ。
脈打つ血まみれの真っ赤な心臓は受け取る人を選ぶだろうが、差し出された緑の林檎を嬉しく思わない者はいないだろう。
そして僕は今僕の目の前に差し出された、その緑の林檎を自分の掌に受け取れたのだろうか。


                   大口弦人(愛のために死す)
                     二千十一年九月一日