「ひかるゆめ」コメントです


「うた」というのは命がけの跳躍である。一説によれば、「うた」の語源は言霊によって相手の魂に対し激しく強い揺さぶりを与えるという意味の「打つ」からきているというが、相手というのは得体の知れない他者であり、揺さぶりを与えられるかどうかは事前には知りようがない。自らの肉声という先天的で他と取り替えのきかない手段を用いて歌い手が歌い出す瞬間、発声している瞬間、息継ぎの瞬間、その全ての局面が命がけの跳躍の連続で取り返しのつかないものであり、もしそれが聴き手の心を打ったとしてもそれは結果に過ぎない。つまり、そもそも「うた」というのは不可能である、という地点から始めなくてはならないはずなのだ。穂高さんの「うた」に通底しているのは、自明なものと捉えてしまった途端に「うた」は死ぬ、という地点に意識的に立ち続けようとする緊張感である。

届かないよ 伝えないから

伝えないよ 歌わないから

歌えないよ 声が出ないから

聴こえないよ 終わりだから(「昨日の歌」)

決して見えないもの、決して触れられないもの、決して知りようのないもの、決して還ってこないもの。穂高さんのまわりには、そういった認知できないものたちが、収穫された芋のように解決されないままゴロゴロと転がっている。彼女はそのことに対して諦念を抱いているようでも絶望しているようでもない。ではどうするかといえば、おもむろに命がけの跳躍である「うた」でそれらに挑みかかるのだ。それらが最初から歌われるためだけにそこに転がっていたかのように。この勝ち負けのない抽象的な闘いを遠くから眺めていると、暗闇に豆電球が灯された中で糸車を回しているような恐ろしく静謐な光景に感じられるが、心して近づいてみれば、聴き手はその中を飛散する微細な刺胞に心身を刺されて傷つき、ある種の疲れを覚えるだろう。しかし、それは正しい負傷であり、正しい疲労なのだ。このアルバムは、そのような稀有な「うた」の軌跡である。


                         関雅晴(sekifu)