先日14日、織夢ちゃんと、麓健一さんの企画ライブを見に、
新宿ゴールデン劇場へ行きました。


最高のイベントでした。
よっちゃんこと、川染喜弘さん、素晴らしすぎて、
言葉にできないくらいでした。
完璧なライブだった。凄すぎて、ほんとうに苦しいくらいだった。
あのとき感じた胸の奥から込み上げてきた感動は、
言葉ではうまく言えないけど・・
昨日あの場所に居れて、本当に良かった。
伝えたいことを、ほんとうに伝えたいという姿勢は、
本気であればあるほど誠実になってゆくんだ。
見ている人がいて、ライブがあることを、よっちゃんはわかりきってる。
見ている人のことをこんなに大切に想ってくれるライブが、ある。
素晴らしい。
大切にされるって嬉しいもの。
ほんとうに、愛情を、感じました。
泣きそうになりながら、笑っていました。
叫びだしそうだったから叫びました。
「やっほー!!!!」と。
よっちゃんはどんどん先を行っていて、
もう見えなくなりそうな位高い山の上にいるように想えた。
嬉しいし、ほんとうに凄い、尊敬します。
自分の周りにこんな人が居ることが嬉しい。


麓さん、きっと本人は調子が悪いんだろうと思われるライブで、
だけど彼の作るメロディーや、歌声は、とても好きだと思った。
美しいものに対する畏敬や憧れがそのまま声になったような人。
彼自身が完璧に美しい人間でないとしても、
彼のつくるメロディーは美しい、
それがすべてだと思った。
だれのこころにも美しさと汚さ両方があって、真ん中もある。
そしてもしかしたら美しいとか汚いとかすらも、
本当はすべて誰にも決められない。
だけどわたしたちはどうしても、その定義をくくりたがるし、
それが芸術に心を奪われてしまったものの宿命なのかな。
人が持ってしまう、悲しみ、喜び、それ自体が崇高なこと。
そんなことを感じさせる歌声。
昨日は悲しみを強く感じて、少し苦しくなったな。
きっともっともっといい時があるんだろう。
そういうライブを見てみたいです。


よっちゃんのライブの中で、
「悲しいこと辛いことあっても、それを外に出すのではなく、
人を傷つけず、自分も痛めつけることなく、
良いベクトルに変換して出せて行くことで、
誰かが元気になるようなことができていけたらと思っている」
みたいな言葉があったのが凄く印象的です。
(もしかしたらちょっとちがうかもしれないけど。。。ごめんなさい。)


多分みんな音楽をやっていたら、
ある時点で自分の恥ずかしさに気づく日が来る。
(もちろん自分を信じ続けられる強い人も居ると思うけれど)
そのとき、音楽をやめるか、続けるかしかないんだ。
自分の表現を続けていくことは、恥をさらし続けることだと、気づいたとき、
そのときは、これ以上、こんなこと、続けたって、ただ辛いだけだと思ったし、
こんな自分の音楽を受け入れられることすら怖かった。
だけどやめることも出来ず、続ける為には、
自分が変わるしかなかった。
だけど自分の変化や間違いを認め、変わっていくことは、
それまでの自分、自分の肯定するものをすべて裏切ることになり、
それができてしまうようになることは、
なにかをあきらめてしまうことだと思っていた。
あきらめて、忘れて、失くして、純粋でなくなっていく、
そして、汚れ、利口になり、つまんない大人になって、
のうのうと鈍感になってゆく、と恐れていた。
(ほんとうは最初から全然純粋なんかじゃなかったのだけど)
楽になることは堕落だと思っていた。
もしかしたら苦しむことを美しいことだと、
勘違いしていたのかもしれない。


だけど、今、もう自分の弱さを認めて、恥をかくことをあきらめ、
自分の楽な方に楽な方に自分を持って行き、
あのときの概念ならばすっかり美しくない今のほうが、
ほんとうに美しいことを随分感じれるような気がする。
自分の美にこだわらなくなってから、
やっと世界の美しさが見えたような気がする。


いっさい汚れないで、だれかを守るなんてできない。
だけどその一方で、自分を手放さなくても汚さなくても、
誰も傷つけなくても、傷つかなくても、
自分の一番楽で、美しい気持ちのまま、
本当は、人と人が一緒に居れる場所は、きっとあるのかもしれない。


人は必ず失うし、だけどすべてを明け渡したところに、
また新しいなにかがはいってくるし、
その新しい何かはとっても素敵なものかもしれない。
そしてどんなに明け渡しても、必ず残る何か、その何かの美しさ。


自分を許すのは、とても難しい。
だけどそこを踏ん張らなければ生きられない。
宮沢賢治は、
「世界全体が幸福でなければ個人の幸福はあり得ない」と言ったけれど、
わたしはほんとうに宮沢賢治が大好きすぎて苦しいくらい大好きだけど、
個人、ひとりひとりがまず自分で自分の幸福に気づいていかなければ、
世界全体の幸福もあり得ないんじゃないか、とも思う。
幸福というものの概念が、人によって全然違うから曖昧だけれど、
どんなときも、自分を愛してくれているなにかに、
自分が大好きだと思うなにかに、
こころから感謝できるような気持ちを持って過ごせたら、
自分の幸せを否定することはできないと思っています。


そして自分にとってそれは、音楽からすべてが始まって、
それは人のいっぱい居る騒がしいところに、たくさんあった。
結局人からたくさんの愛をもらっているんだと気づいた。
だから、誰かがもたらしてくれるのを待っているだけではなく、
自分から人の方に向かいたい。
わかろうと、楽しもうと、すきになろうとしていくことで、
より広がる。よりわかるし、相乗される。
がつがつとじゃなく、軽く、楽しく、ちからをぬいて。
悪意を捨てて。
人の方に向かってゆきたい。
そんなことを、いつからか自分に言い聞かせてる。


だけど悪意だらけの自分から悪意が消えてなくなることはきっとない。
根強い根強い人間不信、自分不信の気持ちが、
こころの奥底にあり続けながらも、出来る限り、
人や自分を信じていけるようがんばりつづけるしかないんだな。


昨日はたくさんの感情が押し寄せてきて、胸の痛みで眠れなかった。
人がたくさん居るところに行って神経が高ぶっていたのもあると思う。
自分を大事におもってくれている人が、心配して、
いろいろ感じすぎて不安定になってしまうから、
あんまりライブを見に行きすぎない方がいいんじゃないかと言ってくれたけど、
やっぱり人に会って、人の表現を見て、
いろいろなことを感じれることが嬉しいから、
これからもライブをたくさん見に行きたい。


とにかく、あの日あのイベントを見に行ってよかった。


宮沢賢治のことは、またいつか書きたい。
ほんとうに言葉では言えない、ほどいろんなことをもらいました。


長くなってしまいました。
読んでくれてありがとう。



             ***



これは書いた当時、一度公開して、すぐに消してしまった文章です。
ぐちゃぐちゃ自分の想いをぶつけすぎていやけがさしたのだけど、
下書きとして残っていたものをやっぱりあげることにしました。
読んでくれてありがとう。
(5月20日