第26昼 sekifu

*第26昼 sekifu『残照』
5/8(日)15時開場・15時半開演
入場料無料+ドリンク代


《sekifuプロフィール》

前身バンドのキヌタパンを経て、2004年9月に結成。
メンバーの変遷はあるものの、
うた・ギター・ピアノ・トランペット・フルート・ドラム・ベースという当初からの基本フォーマットは変わらず、
関雅晴が作曲した曲を演奏する。
関は自身の生活の全てがsekifuだと思っているので、
音楽活動していなくても活動していることになっている。
誘われたらライブをする。
2年に3回くらい。
公表された録音物は今のところない。
まだその時期ではないという無精な思い込みをしているので、
多分永遠にない。



穂高さんのこと》

穂高亜希子さんと初めて出会ったのは、
マヘル・シャラル・ハシュ・バズが2003年7月に市ヶ谷の法政学館でライブをやった時のことだった。
僕はその当時、三鷹のセシーラというアパートに住んでいた。
学館ライブの準備のためにセシーラには多くの人が出入りして、ダンボールで大道具小道具を作ったり曲を練習したり酒を呑んだり寝泊りしたりしていた。
その中の一人にベーシストとしてマヘルに加入したばかりの穂高さんがいた。
二十歳そこそこだった当時の彼女は音楽を始めたばかりで、突然何のきっかけもなく躁状態になって笑い転げたり、道具作りの手伝いに来ても何もしないで寝ていたり、オノ・ヨーコ展で展示してあった生のリンゴを齧ったりしていた。
言ってみれば、不安定さや攻撃性が無防備に剥き出しになっているという絵に書いたような問題児だった。
この強烈な闖入者の存在によってマヘル内部には不穏な混乱が生じ、マヘルに元からいたメンバーの中には彼女に対する嫌悪感を顕わにする人も少なくなかった。
しかし、僕は何故か彼女のことを憎めなかった。
無意識のうちに何かしら共感する部分を感じていたのかもしれない。


それから約一年後、2004年6月に高円寺の無力無善寺でやった工藤冬里穂高亜希子・木村千秋(ミッシング箱庭)のライブは密度の高い緊張感のある素晴らしいものだった。
しかし、それを境に穂高さんはマヘル周辺から姿を消してしまい、風の噂で高円寺の喫茶店で働いているらしいというのを聞いたのを最後に消息が分からなくなった。
一方、当時の僕は前妻との別れという地獄のような別離と向き合っていた。
そして三鷹から武蔵小金井に引っ越し、二年後に現在の妻と再婚した。
次に穂高さんに出会ったのは、2007年4月に新宿JAMで行われた金子寿徳追悼イベントでのことだった。
僕がJAMに到着すると穂高さんが脱兎の如く入口から出てきて、「あ! 関さん!アコギ用のピックアップ持ってませんか!? 持ってないなら一番近い楽器屋知りませんか!?」といきなりキラキラした顔で訊いてきたので面食らった記憶がある。
そのイベントでは、灰野敬二、竹田賢一、山崎春美、ひろしNa、どろんこ、工藤冬里三上寛といった錚々たる面子が勢揃いして次から次へとどす黒い歴史の刻印のような演奏が繰り広げられており、
純白のふわっとしたワンピースを着て舞台床に座ってアコギ一本で歌う穂高さんの演奏はその中では場違いな清涼剤のようなものだったが、個人的には白眉だった。
その「うた」を聴けば、彼女が以前とは異なる芯の強さを身に着けていることは明らかだった。
彼女が先に人生があってしか音楽は有り得ないということを知り抜いているのも明らかだった。
彼女が「嘘がない音楽」に拘泥するのは、その為であろう。
彼女が音楽に対するモラルを人一倍持っているのも明らかだった。
ここで言っているモラルとは、坂口安吾が言うように「本当の倫理は健全ではない」(デカダン文学論)という意味でのモラルである。
そのうたとギターには、大地に根を張った桜の幹の中を樹液が流れ昇り、梢からしわじわとした葉が芽生え、無数の花がほころび始め、役割を終えた花弁がハラハラと散る、そういう瞬間瞬間の美しい怖さがあって、空気が一変する。
この三年間に彼女に何があったのかは知らないが、そのような地平に到達するまでには地獄のような人生があったとしか思えない。


次に穂高さんと出会ったのは、それから二年半後のことだった。
僕は武蔵小金井から国立に引っ越し、2008年末には娘が生まれていた。
2009年11月に高円寺ペンギンハウスで自主企画をして、ふと思いついて主催のシマさんに穂高さんを誘いたいと持ち掛けたら出演してくれることになったのだ。
相変わらず彼女の演奏は素晴らしく、何度も息を呑んだものである。
後日彼女からメールが来てsekifuを絶賛してくれたのは光栄だったが、その頃僕の中での音楽に対するモチベーションは殆ど消えかかっており、もうやめざるを得ないかもしれないと思っていた。
2010年の末に僕は病気になって休職を余儀なくされたが、その不慮の休息によって再び音楽の灯が僕の中に灯された。
そして、2011年3月の東日本大震災があった。
仙台の実家の家族や友人など身近な人たちの被災を経験した後、自分が音楽を疑うことをやめていることに気付いた。
一生やろうと思った。
穂高さんから今回のチャリティーアコースティックワンマンライブへの出演依頼が来たのはそんな時だった。
チャリティーもアコースティックもワンマンも一度もやったことがなかったが、吸い寄せられるように一も二もなく引き受けた。
震災によって再び彼女とめぐり合うことになったのだ。


思えば不思議な関係である。
だいたい穂高さんとは殆どまともに会話らしい会話をしたという記憶がない。
それでもこのように断続的ではあるけれど確かな関係が続いているのである。
言葉ではない何かによって長い時間をかけて築かれた関係は強い。
僕はそう信じているし、きっと穂高さんもそう信じているのではないかと思う。


              ***


穂高より紹介

関さん。関さんも不思議な人だと思う。
本当に不思議な人だと思う。
出会いは上にあるとおりです。

正直、上記の文章を読み、昔の自分のことについては閉口していますが、
こんな風に書いていただいて本当に光栄であり恐縮でありながら、
いろんなことが嬉しく懐かしく思い出され、微笑みながら読ませて頂きました。


そういえば、人見知りと対人恐怖がひどすぎた当時のわたしも、関さんのことは何故だか全然こわくなかった。
関さんの目を見て、関さんが優しい人だと一瞬でわかった。
(もちろん今思うとみんな優しかったです。本当にあまりに若かった、と思います。)


ぼんやりぼやぼや思い出す記憶の中で、関さんはいつも優しい笑顔で笑っています。
sekifuのライブは一度しかみたことがないけれど、
ライブの時の関さんは、いつものほのぼのとした優しい笑顔が奥に引っ込み、
なにか目に見えない敵と戦うかのように宙を睨み付け、真剣そのものでした。
そうして、とても攻撃的なギターフレーズを弾く姿は、
まるで自分自身と戦っているように見えました。
だけどメロディーにはつねに優しさに溢れ洗練された美しいものでした。
sekifuのメンバーも、一触即発のような関さんのギターやうたに刺激されているかのような張りつめた演奏で、
優しいメロディーとは対照的な不思議な緊張感を同時に客席に感じさせ、目が離せなかったです。

そのライブを見て、心が熱くなったのを覚えています。


このとき対バンだったのが、yumboの澁谷浩二さんのソロでした。
(これまた素晴らしいライブでした。)
関さんと澁谷さんは、マヘルの時から本当に仲がよく、
いつも一緒にいらっしゃったように記憶しています。


3月の震災の直後、すぐに気になったのが仙台におられる澁谷さん夫妻のことで、
関さんに、安否の確認出来たとメールをもらったことで、とても安心しました。
(だけどオープンしたばかりお店の方の大変さに関しては少し伺い、本当に自分には想像できないものであります。)


そうして、メールをを交換しあうなかで、今回の企画を思いつき、
sekifuのライブがまた見たいなぁと思って、駄目もとでお誘いしました。
そうしたら、すぐに快諾のお返事を頂き、本当に本当に嬉しかったです。


そして今回、関さんにお誘い頂き、三曲ゲストにて歌を歌わせて頂くことになりました。
とっても素敵な曲です。
一人練習しました。楽しみです。


上の文章を読み、関さんと、今の自分とが出会い、
明日音楽を初めて一緒に出来るということが、
本当に凄いこと、
人の縁というものの糸の丈夫さに、驚いています。


明日は管楽器を使うことや、関さんのご希望で、昼間のライブになります。新鮮。
皆様青空の下、気が向いたらぜひ音楽を聴きにきてくださいね。


きっと爽やかな昼間になると思います。

おやすみなさい。