第25夜三村京子さん

*第25夜 三村京子
『みんなを屋根に』
5/7(土) 18時半開場 19時半開演
入場料無料+ドリンク代


三村京子さんプロフィール
1983年生まれ。「ちゃんと伝えること」が下手くそだったためか、
歌うことをつうじて、他者に出会うことの喜びを知ってしまい、
やめられなくなって、いまにいたります。
http://hoshiinusha.com
http://www.myspace.com/mimurakyoko


◆三村さんメッセージ
月末に関西ライブを控えていた、
311が起きた時、誰かのためになどうたえないな、と、よくわかった。

逃げたい、ということしかおもわなかった。

逃げたいけど、東京を離れるのは、うしろめたかった。くやしい気もした。

主に音楽やアルバムを一緒に作ってくれたひとたちにたいして。

それで、パニックってるわたしにたいして、親しいひとが、
哀悼するんだよ、と、おしえてくれ、

家でとにかくすきなうたをひとりでずっとうたうことにした。

そうしたら、感情が身体にわいてきて、

ただ音楽やりたいんだからやればいいんだ、というふうに落ち着いたのかな。


穂高さんとはよく会ったり喋ったりするわけじゃなかったけれど

ライブを通して共通の知り合いがたくさんいた。

まだいまよりもっと混沌としている3月のそのとき

穂高さんが、まっすぐなメールをくれて

うれしかったです。

自分のライブには自信がないけど

穂高さんとお茶したいです、という返信をしてしまった。



              ***


穂高より紹介
三村さんじゃあ今度お茶しましょう。
とお返事したけれど、
三村さんとお茶するとしたら、わたし緊張してしまって、
うまく話せないかもしれないな、
それにわたしたちふたりがお茶したら、きっと突き詰めた話になるだろう、
美味しいね、可愛いね、とか、
そういう女の子らしいお茶の時間にはならない気がする、
などと想っています。


うたをうたうものとして、同世代である三村さんという歌い手の存在は、
やっぱり自分の心の中で、どうしても気になりひっかかるひとであり、
見るときに、よし見るぞ、見なきゃ、と思わせる数少ないシンガーの一人です。


今回この紹介文を書くのに、いちばん気が重かったのが三村さんのことで、
わたしが三村さんのことを書くって言うのは、
うん、三村さんに対する自分のちょっとした幼稚なライバル意識?や、

自分のうたとの比較、などとも向き合わなければいけないことであると思ったから。
(とてもじゃないが敵わない部分ばかりであるけれどもね、
彼女が持っていて自分が持っていないもの、
自分が持っていて彼女がもっていないもの、
わりとお互いに比べやすいくらいはっきりとある相手であると思う。)


そしてそれを想いながらやっぱり、改めて、自分は、
三村さんの『うた』っていうもの、
それから『存在』に、ほんとうに一目置いているのだなあ、
と認めざるおえないことに気づきました。


三村さんからメールもらうと嬉しい、
そして、三村さんがメールに絵文字(^0^)/入れてくれると、やたら嬉しい。
だって三村さんはクールな人、という印象があるのに。


三村さんは、最初のメールを交換していたとき、
自分のうたを、「パフォーマンス」と形容していました。
「求められているようなパフォーマンスができるか心配です」というような内容が、
私におくられてきたとき、「はー!」と思いました。
三村さんはご自身のライブをパフォーマンスと割り切っておられるのだろうか、
わたしはなんだか驚いたし、カルチャーショックを受けました。
だけど、それを、「割り切っている」という言葉にしちゃうのは、
間違っているかもしれませんが。



ここから、勝手なことばかり書きます。
これは、三村さんをお呼びした時点で、書くことを覚悟してきたこと。


わたしは、三村さんのアルバムを聴いて、三村さんのイメージを知って、
ライブを見るときいつも、だまされないぞ、という気持ちで見ていました。
三村さんが音楽の中で見せようとしてくる三村さんは、
ほんとうの三村さん自身と少しずれがあるように思ったからです。
もちろんずれなんて誰でもあるけれども、
わたしには三村さんが、なにかを演出している感じがしたし、
女性像、少女像、歌手像、人生像、情念像などなど。(安易でごめんなさい)
お客さんもそれを楽しめばいいのかもしれない。
そして三村さんもこれは演出だよ、という意味でやっているのかもしれない、
でも、その演出された登場人物より、
ほんとうの彼女が持ってる情念や人間性、女性性のほうが、
よっぽど強くて、鋭く、痛いように思います。
そのパフォーマンスと呼ばれるものの奥底にある、ほんとうの三村さんを、
わたしは見たいし、眼を凝らしていつも見ようとしてしまう。


そして見えるその姿は、
彼女はほんとうは強くないし、とても儚い女性特有の弱さを持っている、
だけど、甘んじたくないのかな、
弱さを持ちながら、強くあろうとつねに戦っている、勇ましい女性戦士の姿です。
その姿や気迫はやっぱり「凄いな」、と思わせるものであり、
ほんとうに美しい煌きを持って蒼く光っているように想います。
それは、彼女が求めてる凄さじゃなく、
彼女が、ひとり、自分を鼓舞しながら、
自分のうたをうたうということを続けてきたことで培ってきた凄みなのだと、
わたしはおもう。
そして、音楽に対する半端じゃない本気さから出る凄みなのだと思う。


こんなことを勝手に分析するのはほんとうに失礼極まりないのだと思うけど、
そして、何度も対バンしたのに、自分が彼女に感じていることを、
彼女に面と向かって話すことを避けてたのだけど、
今日ここで書くに至りました。


ほんとうのこと、ばかりに固執しようとするわたしのこんな見方に、
三村さんは本当のことなんてどうでもいい、これはパフォーマンスだから、
って言ってくれるかな。
それとも、うたってそういうものだよ、って。


もしほんとうにお茶をすることになったら話してみたい。


明日のライブ、ほんとうに楽しみです。
なぜだかわたしが、ものすごく緊張しています。




                 ***